1. RSYブログ
  2. その他
  3. 発信する側、受け取る側の背景
 

発信する側、受け取る側の背景

2019/05/05
突然ですが僕の兄はデザインの仕事をしています。本を作ったり作品を出したり、詳しくはわからないですが芸術関係の仕事に長年携わっています。昨日ちょうど用があったのでそんな兄の家に行ってきました。現在の兄の家に行くのは初めてだったし、そうしょっちゅう訪ねることもないので、今制作中のRSYの宣伝チラシ(5月中旬配布予定)のアドバイスをもらおうと思い自分のパソコンを持参して行きました。

このチラシは僕が自分で作業をしてほとんど完成の段階まで来ていました。兄には最終的な配色や全体の印象に対してのアドバイスを頼んだのでした。結果的に配色をだいぶ変え、短時間だったにもかかわらず全体の印象がすごくすっきりして見やすいチラシになりました。

ここで思うのは「やっぱり物事はその道の専門家に頼むのが一番」だということ。デザインについて素人である僕が悩んで考えても長年それに関わっている兄のようなアイデアは浮かんでこないのです。専門家の知識と経験の蓄積があって初めて洗練された選択ができるのです。

そしてそれと同時にもう一つ思うこと、今回はこちらがメインのテーマになるのですが、それは「最初から全てを専門家に頼らなくてよかった」ということです。

伝えたいのは「最初はなんでも自分で努力してみるという美徳」ではなく、「ある一つの知識の背景」といったものについてです。

今回のケースで言えば、まず僕はあまりパソコンの操作に慣れていません。ですのでチラシを作る際にもパソコン操作だけで時間がかかってしまいます。またデザインに関しても知識が無いので写真や文章の位置、配色を考えるだけでも手が止まってしまいさらに時間がかかってしまいます。

ただ作業を続けていると、わからないことが多い分、新しく吸収できることも多いのです。そして新しく知ったことが最善の方法でなくても、それは新たな知識の土台になります。

そう、チラシ制作前よりも知識と経験の土台がある状態で兄にアドバイスを求める。すると返ってきた答えが自分の知識と経験の土台のある部分に収まる感覚があるのです。ただ答えや方法論を鵜呑みにするのではなく、自分なりに消化するという感じです。最初からアドバイスを求めるのとはまた違う結果になったと思うのです。

経験上の話ですが、簡単に得たものはすぐに忘れてしまう気がします。例えば学生時代の数学でも、問題がわからなくてすぐに解答を見てしまった場合、次に同じような問題が出てきても考え方がわからず答えられない。答えがわからずとも自分なりに考え方を模索してから解答を見た場合には、模範解答を見て「ああ、こういう考え方もあるのか。」と自分の考えと比較して新たな手段を受け入れられる。そんな違いがあるように思います。

もちろん人生の時間は限られるし優先すべきもの以外はプロに丸投げするというのは賢い選択肢です。ただ取り組む物事が自分の本当に学びたいことであったり、優先すべきものだった場合には少し遠回りしてでも自分で考え、試行錯誤する時間が大切なように思います。その「余計な手間」をかけている間にその物事に関する知識と経験の土台が広く固まってくるように思います。もし的外れな考察をしてしまっても、その的外れが後々思いもよらない場面で生きてくることが多々あります。もしくは直接生きてはこなくても思考の幅が広がります。

自分で考えるよりも専門家の答えを先に聞くという方法もあります。もちろん僕も様々な場面でこの方法を選びます。ただ知っておきたいのはその専門家の一言の的確な答えの背景には膨大な量の知識や経験があるということ。その背景を知らずとも「この一つの答えの裏には自分の知らないことがたくさんあるんだろうなあ。」と想像するだけでも、未来におけるその答えの生かされ方が変わってくるのではないかと思います。

ヨガでもその他のことでもこの「背景」への想像力や洞察、「幅を持たせた可能性」の追求が大切になってくるのではないかと思います。

兄のことから始まり、少し話が大きくなった気がしますが....GWもあと一日、楽しんでお過ごし下さい。

RSY~Rainbow Season Yoga~

お気軽にお問合せください↓

E-Mail:info@rsy-yoga.com

お問い合わせ