こんにチワワ、ここ数日喘息の咳に苦しめられているKokiです。だんだんと秋の気配が漂ってきましたね。嬉しいような寂しいような。
さて、今日はトゲバナナのトイレ人間になった話ではなく、日頃考えている真面目な話です。
「未来の不確定さ」について。
当たり前ですが、未来のことはまだ起こっていないので人間個人の認識レベルでは「実際この先何が起こるか?」はわからないですよね。その事実自体は至極当たり前のことなのですが、僕はこのことが非常に大切だと思っています。
どんな場合に大切か?
何かに挑戦する際にです。
しかし何かにチャレンジする際にこの「未来の不確定さ」が逆に足枷になっている人が多いようにも思えるのです。
つまり...
「もし挑戦したとしても成功するか失敗するかわからない。。」
と考えてしまって本当はやりたかったことの挑戦自体を諦めてしまったり、ちょっと結果が出ないだけで半端な継続で終わってしまうことがあるのです。もしくは「未来が確定するくらいまで準備が整ったらやってみよう」といつまでも「準備」という名の安全地帯にいることに知らず知らずのうちに快感を感じていきます。
その根底には「やってみても才能があるかどうかもわからないし...」みたいな不確定さをネガティブに捉えるマインドがある場合が多いように思います。
しかし何かに挑戦したりを躊躇なくできる人は「未来の不確定さ」への認識が違います。能力も未来もあるかないかわからなくて当たり前だし、わからないことが逆にチャンスだとわかっているのです。
この考えがわかりづらい人は逆を考えれば明確に整理できます。未来の逆、すなわち過去のことは確定しています。(※過去に対して自分の感情をいくらでも変えられる、という話はここでは置いといてください。わかりやすく過去の出来事そのものの話です。)
わかりやすく言えば、人生の終わり間際になれば、今まで歩んできた人生が明確にわかり、自分ができたことやできなかったこともわかります。若かりし頃の自分がやりたくても諦めたことや、本気でやってみたけど夢破れたことが確定しています。挑戦したことも挑戦すらしなかったことも引っくるめて「自分にはできなかったこと」が明確にわかります。逆に言えば過去になって初めてわかるのです。
ならば未来は?
未来は不確定なので「自分ができなかったこと(できないこと)」がわかりません。努力継続の末に得られる「能力」がもしかしたら自分には無いこともわかりません。未来の自分にとっては確定された過去になるべき時間が、今の自分にとっては不確定な未来として存在してくれているのです。
だからこそ不確かさがチャンスなんです。確定してからじゃ完全に手遅れなんです。挑戦したい気持ちがあるならば、そして生まれてきてから死ぬまでの時間の短さを知っているならば、自然に未来の不確定さに感謝することになります。だからそもそも怖いも何もない。過去として確定してしまう恐怖に比べたら未来の不確定さは比較対象にもならないのです。
そこの根底の違いが失敗を失敗とも思わずに進んでいく人と挑戦自体が怖かったり1回の失敗で腐ってしまう人の違いでもあります。(※挑戦しない人が悪いとかではなく、それが自身や人の世にとって良い面も多々あります。これはまた別の機会に。今回は「挑戦したい気持ちがある」というのが前提の話になります。)
まあそもそも「何もできなくて当たり前の世界」。多くの人間、そして多くの集団がそれぞれの思惑を持って本気で生きてる中個人ができることなんてたかが知れています。僕も含めほとんど全ての人が凡人です。「できるの確定」なんてそもそもないのです。(「でき確」だったらそもそも挑戦ですらない。)
「できる確定」なんてものがこれっぽっちもないのが前提の世界において「できない確定」が未来にないことこそが救いなのです。それならばその救いを盾に自分をやり切るだけです。他人の目や言葉を気にせず集中するだけです。やればできるかもしれないという希望が抱けるのだから。
どうせ死ぬ間際にわかります。できたこともできなかったことも。すぐにわかります。人生短いですから。確定させるのはその時で十分です。
どうでしょう??
未来の不確かさ、チャンスだと思えませんか??
ではまた未来に!!