昨日までは「ら」抜き言葉も見方によれば長い歴史の言葉の変化の一部で自然なことではないかという捉え方もある、という話でした。
一方で昔からあるものを守りたい、残したいと思うのは当然で、古くからあるものと新しいもののせめぎ合いがあるのは当たり前の反応なのだと思います。古いものだけがずっと続いたり、逆に何でもすぐ新しくなってしまっては安定性と流動性のバランスがとれませんから。色々なことが両者のせめぎ合いの中で徐々に変化していくものだと思います。「ら」抜き言葉もその一つで、もはや変化は止められないものなのかもしれません。
そして今回のテーマは「ら」抜き言葉そのものではなく、その捉え方に移っていきます。「ら」有り言葉を絶対的に正しいルールとして人間がそれにただ従うのではなく、「ら」抜き言葉が生まれたことを自然な現象として捉えてその「なぜ?」を考えるという捉え方。
言い換えれば、規範が先に存在するのではなく、現象が先に存在する。教科書的な考えが先に存在するのではなく、現象を分析し仮説を立てたのが教科書とも言えます。
わかりづらいと思うのでスポーツの話に置き換えましょう。
僕は水泳を教えていますが、よくこんな質問があります。
「平泳ぎの手はどう動かすのが正しいのですか?」
難しい質問です。というよりも答えづらい質問です。完全にこれが正しいという答えがないのです。平泳ぎをどう泳ぐべきかという唯一の教科書があるわけではないのです。
もちろん平泳ぎの泳法に関するルールはあります。こうしてしまったら失格だとか、競泳にもルールがあります。そのルール内でいかに速く泳ぐか、もしくは競泳でなければ、いかに効率よく疲れずに泳ぐかが上の質問でも問題になってくるのですが、絶対的にこうだという答えはないのです。
平泳ぎはだいぶ前から存在しオリンピック種目にもなっていますが、50年前と今とでは泳ぎの形が全然違う。タイムも比べ物にならないほど速くなっています。ここ4〜5年だけを見ても常に泳ぎは変化し続けています。
さらに同じ時代にあっても泳ぐ人によって泳ぎ方は異なります。同じ人であっても年齢によって泳ぎは変化します。
だからといって教科書的なものは必要ないかと言えば、そうではなく、めちゃくちゃ必要なのです。(「めちゃくちゃ必要」なんて言葉は文法的に間違っていると言われそうですが。)教科書がなければ先人達が研究したことが学べず、どんな分野でも一から自分で考えなくてはならないからです。短い一生のうちにそんな時間はありません。
そしてその教科書的なものがどう作られるかというと現象の分析が元になります。水泳でいえば、
1. Aという平泳ぎの速い選手がいる。
2. Aの泳ぎを分析してみると他の選手と違いBという要素を泳ぎの中で行っている。
3. Bの要素を細かく分析してみると、どうやら水の抵抗を減らすのに効果があるようだ。
4. 平泳ぎはBという技術を取り入れれば速くなる(という仮説)。
4が新たな時代の教科書的存在となります。このように時代によって教科書は移り変わるし、絶対的な規範はないのです。上記のBの技術もこれから廃れていくかもしれない。そこら辺も「ら」抜き言葉と同じように伝統と革新のせめぎ合いなのかもしれません。
そして問題はBの技術が必ずしも誰にでも当てはまるものではないということ。例えば水泳初心者のCさんが楽に長く泳げるようになるためにはBの技術は必要ないかもしれない。Cさんには他の教科書的な技術の方がより必要なのかもしれないし、もしかしたらCさんが自身の目的を果たすために自分自身の練習だけで十分なのかもしれない。
では先程の「平泳ぎの手はどうかくのが正しいのですか?」という誰かの質問に対し、
「正解はないのですから自分で考えてください。」
と突き放してしまうのかといえば、もちろんそんなことはしません。僕もインストラクターとしてなんとかしたいという思いはもちろんあります。
長くなりましたので今日はこれくらいにして、続きは次回に回そうと思います。