昨日は「ら」抜き言葉も「行かれる」「行ける」などの"ar"抜き言葉の一種なのではないかという話でした。なので「ら」抜き言葉も時代による言葉の変化の自然な流れなのではないかというのが"ar"抜き言葉を研究する言語学者の見解のようです。「行ける」という表現に疑問をはさむ人は現在いないと思います。「食べれる」への批判もそのうちなくなるのかもしれませんね。
「なぜ"ar"が抜けるのか?」についてはなかなか答えを出すのが難しいところだと思います。ただ抜けることによるメリットはあります。助動詞「られる」には可能の意味だけでなく、受身やちょっとした尊敬の意味があります。「ら」抜き言葉はその区別をより簡単にする役割があります。
a)好き嫌いなく野菜も全部食べられる(可能)
b)せっかく育てた野菜が野生の猿に食べられてしまった(受身)
c)先生が野菜を食べられる(尊敬)(「先生が野菜を誰かに食べられてしまう」という間接受身ともとれますが。。)
上の文は状況を説明する語句が多いので、それぞれの意味の違いは母語話者であれば明確にわかると思うのですが、要素を動詞(助動詞「られる」を含んだもの)と目的語だけにしぼってみると以下のようになります。
a')野菜も食べられる
b')野菜が食べられる
c')野菜を食べられる
もはや判別が難しいですね。そもそも元のaの時点でも無理やり受身と解釈することはできます。a'になると尊敬の可能性も入ってきます。(aでも尊敬の可能性もアリかも…?)また格助詞「が」「を」が入れ替え可能なことも判別を困難にします。
ただここで「ら」抜き言葉を使えば動詞要素だけでもわかりやすくなります。
a")食べれる
b")食べられる
c")食べられる
b"とc"は判別できませんがa"は明らかに可能の意味ですね。このように「ら」抜き言葉のメリットも存在します。
こんなふうに書いていくと僕が「ら」抜き言葉を推奨しているような感じがしてくるかもしれませんが、別にそういうわけではありません。「ら」抜きを否定も肯定もしません。僕自身、日常生活で自然に「ら」抜き言葉を使っていることもあると思います。ただメールや手紙などの文書では「ら」抜き言葉は絶対に使わないようにはしています。理由はその方が無難だからです。「ら」有りと「ら」抜きが混同している今の時代には元々あった形を使った方が様々な場面でトラブルなく過ごせることが多いからです。今のところ教科書も「ら」有りが基準ですしね。
そう、この話は教科書的な考えが何たらかんたらというところから始まりました。「ら」抜き言葉を使う使わないは置いておいて明日以降はその辺りに話を戻していきたいと思います。
ともかく「ら」抜き言葉をただ教科書にあるルールから外れているとだけみなすのではなく、一歩引いたところから観察してみるとまた違った考え方もあるのではないかという点だけ伝えたかったのです。
ではまた明日。